もう10年以上も前の話。
当時とある商店街の近くのマンションに住んでいた。
かなり活気のある、大きな商店街だった。
薬屋、スーパー、お惣菜屋、八百屋など、生活には欠かせないお店が何でも一通り揃ってる。
特に八百屋。商店街の八百屋は値段が安くて新鮮な野菜が置いてあって、いつも買い物客で賑わっている。
だが、その商店街には、そんな賑わいとは全く無縁の八百屋が一件だけ、あった。
いつ通ってもその八百屋にだけは全く活気が無く、お客さんも殆ど居ない。
ひょっとして営業していないのでは・・・?
そうも思ったが、そんな事はなかった。
ちゃんと店頭には野菜が綺麗に積んであっるし、それに形や大きさも悪くない。
寧ろ他の店の八百屋よりも立派な野菜が置いてある。
なのになぜお客さんが来ないのか。
不思議に思い、ある日その八百屋の前で立ち止まり、置いてある野菜を見てみる事にした。
目の前には大きなキャベツがザルに入れられ置いてあった。
随分大きなキャベツだった。
スーパーなんかに置いてあるキャベツより、二周りくらい大きい。
それに中身もギッシリ詰まってそうな、いいキャベツだった。
「何だ、悪くないじゃん・・・」
そう思ってふいにそのキャベツの横に掲げてあった値札に目をやった。
その金額を見て、愕然とした。
そこには雑な手書きの文字で、こう書かれていた。
キャベツ 398円
「なっ・・・!」
ちょっと待って。キャベツって普通、198円とかじゃないの?
安い時だと100円とかで売ってたりするよね?
そりゃあ確かに時期によってはキャベツが随分高い時もあるけど、それでも258円とか298円とかであって、398円ってことはないよね。
なのに、ここの八百屋のキャベツは398円。
意味が分からなかった。
そして同時に、こう思った。
これってぼったくりじゃないの・・・?
これじゃあお客さんなんて来るわけがない、そう思った。
この本に出逢うまでは。
「予想通りに不合理」 ダン・アリエリー著(早川書房)
この本の著者、ダン・アリエリーによると、人は無意識の内に物の適正な値段をアンカリング(刷り込み)しているのだという。
例えば、多くの人にとってのキャベツの適正価格とは、198(+-)
このアンカリングされた基準を元に、
「ああ、今日はキャベツが安いわ」、「まだまだキャベツが高いわね・・・」
などと判断し、買い物カゴにキャベツを入れるか入れないか、もしくは半キャベツにしておこうか、といった具合に意思決定をする。
でも、考えてみたら、キャベツの適正価格が198円というのは、一体誰が、どんな理由で決めたのだろうか。
その値段には本当に合理的な根拠があるのだろうか。
そしてもしこれからキャベツの収穫事情や税金事情なんかが変わって、最近の煙草のようにキャベツ1個500円なんて値段になったとして、そうしたらキャベツは誰も買わなくなるのだろうか。
そして日本のキャベツ消費量は大幅に落ち込んでしまうのだろうか。
改めて冒頭で紹介した八百屋のことを考える。
なぜあの八百屋のキャベツは398円なんだろうか?
きっと、他のキャベツとは違うからなんじゃないのかな。
多分、無農薬とか、有機栽培とか、特別な肥料で育ててるとか、
何れにしてもぼったくり、なんてことはないよね。
いい物だったら例え幾らで売ろうと、それは店側の自由なんだし。
ただ、
自分を含めた日本のごくごく一般的な人にとってキャベツっていうのは、やっぱり198円前後の値段で意識上にアンカリングされているわけで、
それを覆えして398円のキャベツを売るっていうのは、勇気が要ること。
というかそれ以前に、売れるのかな?という素朴な疑問。
でも、よくよく考えて見れば、牛肉だって安いアメリカ産やオーストラリア産のものから、霜降りの国産牛まで、ピンからキリまで揃っていて、値段だって様々だ。
なのに、どうしてキャベツはいつも198円でなければいけないんだろうか。
でも、例えあの398円のキャベツがどんなに無農薬で、高級な特別なキャベツだったとしても、多分自分は買わないだろうな・・・
そう、自分の中のキャベツに対する根本的なイメージ(=アンカリング)を変えない限り。