平日の午後。ガラガラの駅のホーム。
ラッシュの時間帯さえ避けるよう心がけて行動すれば、日本の駅もなかなかに平和だ。
長閑な時間。ホームに立ち、のんびりと電車を待つ。そんな時・・・
一体どういうつもりなんだろう。
ガラガラに空いてるホームで、他にもスペースなんて幾らでもあるのに、わざわざ私の隣ぴったりに寄り添うようにして立ち、電車を待つオヤジがたまにいる。
意味が分からない。
どうしてこんな状況でわざわざ自分のすぐ隣に立つ必要がある?
たまたま自分が立っていた場所が、オヤジにとっての”いつもの場所”だったから?
それにしたってあんなにギチギチに隣に並んで立つかな?
それに、例えそうだったとしても、そこは良識ある大人として、敢えて一つ向こうの島に立つとか、そういう妥協と配慮をするもんじゃないのかな?
第一、不快だ。
何が?
よく知りもしない人間に自分のすぐ近くに、しかも無言で立っていられる事が。
あなたもそんな経験したことはないだろうか?
公共の場で、全く知らない他人に予想以上に自分の近くに無言で立たれ、イライラしたり不安になったりした経験が。
でも心配は無用だ。
あなたがそんな状況でイライラしたり不安になったりするのは、決してあなたの心が狭いからでも、あなたに思いやりの心が欠けているからでもない。
アメリカの文化人類学者、エドワード・ホールは自著、「かくれた次元」(みすず書房)の中でこう述べている。
「人間を含む全ての生き物には、それぞれが持つスペーシング(なわばり)があり、相手にむやみにその一線を越えられた時、人は激しいストレスに見舞われる」
例えば、街で野良猫を見つけて、撫でようと近付く。
猫は、暫くの間逃げずに、自分に近付いてくる人間を観察している。
時折あくびなんてしたりして、さも余裕がある姿をアピールするかのように。
そして、近付いてくる人間と自分との距離が、ある一定の距離を超えた瞬間、猫はまるでスイッチでも入ったかのように急に立ちあがり、逃げていく。
そう、猫は”この距離までなら安全”という、自分だけのセーフティゾーンを持っているのだ。
そして、その距離を超えて人間に侵入された時、”これは危険”と判断し逃走する。
横浜山下公園の氷川丸を固定する錨のチェーンには、いつもこのように整然と水鳥が止まって休んでいる。
その姿は、ちょっと笑ってしまう位に整然としていて、行儀がいい。
実は、この光景をずっと見ていると、たまにこの整然と並んだ水鳥同士のスペースに無理矢理入ってこようとする行儀の悪い水鳥が現れる。
そうすると先に止まっていた水鳥が羽根をバタつかせて、その行儀の悪い水鳥を追い払ってしまうのだ。
恐らくこの錨のチェーンの凹凸の形が、彼らの仲間同士がそれぞれストレスを感じることなく快適に休める個体スペースと丁度同じなのだろう。
こうして見ると、人間を含む全ての動物は全て”なわばり”を意識して生きているのが分かる。
そして、知らない人に無暗に近付かれるとストレスを感じるのもまた、人の動物としての本能。
それは恐らく、「それ以上近付かれたら、相手が変質者や殺人鬼だった場合、自分を守れない」と本能で危険察知しているからなのかも知れない。
こういう事を知っておくっていうのは、決して無駄なことじゃないよね。
特に、自分が他人に抱く感情やストレスが、何から来るものなのか。
それは自分の未熟さから来るものなのか、それとも人間誰しもが持つ本能的なものなのか。
そういう事を社会心理学の観点から知識として知っておくことは、少なくとも意味の無いことではないよね。きっと。