大好きだったマンガが映画化、もしくはアニメ化されることになった。
よくある話。
原作のマンガが大好きで、思い入れもひとしお強いファンとしては嬉しい半面、一抹の不安も過る。
ちゃんと原作の良さ、伝えてくれるかな。
なんか、中途半端な作品になったら嫌だな。
そしてその不安は、大体的中する。
原作とほぼ同じシーン。同じセリフなのに、なんか違う。
その、”なんか”とは”ま”の事でしょう。
「あの人、”ま”が悪いね」と人はよく言ったりする。
「すいません。”ま”違いでした」なんて言ったりもする。
この、”ま”というのは英語で言う、タイミングなんかのことではない。
セリフや人物同様、その作品に無くてはならないもの。
なのに多くの映像化される物語の殆どには、原作にはある”ま”がことごとく削られて無くなってしまっている。
美味しんぼの”ま”
例えば、名作マンガ美味しんぼ「母なるりんご」の中の、このシーン。
美味しんぼ14巻 第5話「母なるりんご」より
「くそっ…何がアップルティーだ! こんな人工的な気持ちの悪い香りを紅茶の葉っぱに付けやがってっ!」
青沢さんのこのセリフの直後の山岡の「ハッ」という一コマ。
この、何でもない一コマが、小さい頃に母親に捨てられた息子という、いかにもありがちなストーリーを奥深いものにしている。
多分、この「ハッ」という一コマが無かったら、このストーリーは自分の記憶からとっくの昔に無くなってしまっていただろうね。
この一コマのお陰で、20年以上経った今でも美味しんぼの「母なるりんご」は自分の中でいつまでも記憶に残る、忘れられない話になったと言っても過言ではない。
それだけ重要なシーン。
なのに、アニメではこのシーンはカット。コマ割りでたったの数秒で済むシーンにもかかわらず!
さらにその後の、
「青沢さんの言う通りだ。アップルティーもアップルパイも、青沢さんにとっては特別なものなんですね」
山岡のこのセリフも全てカット。
だからアニメの「母なるりんご」は何が言いたいのかよく分からない、気の抜けた炭酸のようなぼやーんとしたイメージの、つまらないただの人情話になってしまった。
何でこういうの分からないのかね?構成や編集のプロが。
何考えて仕事してんの?
いつも見ていて苛々する。
ONEPIECEの”ま”
”ま”についてもう一つ。
これはONEPIECE(73巻)の一場面。
ONEPIECE73巻 第725話 ”無敗の女”より
この、最後の一コマ。
サンジがアホ丸出しで居なくなった後の、ヴァイオレットが一人で寂しそうに笑みを浮かべるシーン。
この一コマを見るだけで、ヴァイオレットが抱えてきた色んな想いや苦悩、そして心に秘めた覚悟までが見えて来るから不思議。
ONEPIECEがすごいマンガだなと個人的に思うのは、こういう所。
どんなにフザけたり、はっちゃけたりしても、こういう、たったの一コマで物語をグイっと引き戻してくる。
最近だとるろうに剣心の映画。あの映画も原作にあった”ま”が全く無い。
まあ、どこのシーンの”ま”なのかはファンなら言わなくても映画見ればすぐ分かるだろうけど。
ただ時間内にるろ剣のエピソードとアクションを、詰め込めれるだけ詰め込みました的な、残念な作品だ。それなりに迫力あって面白いけど。
面白いって言うか、面白さがもう剣客モノって言うよりはスターウォーズのようなSF的な面白さになっちゃってるけどね。
最後に
ぶっちゃけ日本人がこれだけ”ま”を重視する理由は、個人的には時代劇のせいなんじゃないかと思ってる。
時代劇を見ない人には何のことだか分からないだろうけど、時代劇の映画にはこういう、”ま”がふんだんに盛り込まれてる作品が多い。
忠臣蔵なんかはもう、”ま”の宝庫と言っていい位。
思えば昔の日本人はみんな不器用で、妻に「愛してる」の一言も言えずに戦地で死んでいくような無骨な男が多かった。
恋死なん 後の煙にそれと知れ つひに漏らさぬ中の思ひは
何でもすぐ言葉にできるアメリカ人とは違い、日本人は伝えたいその思いを”ま”に込めたのかも知れない。
そして作者の”ま”に込めた想いを知る時、何とも言えない気持ちになる。
あなたの好きな作品の中にも、きっとあなただけが感じる”ま”があるんじゃないですか?