歯が急に痛くなった。数年ぶりのことである。
よく、歯の痛みと頭の痛みは我慢のしようがない、なんて言うがその通りで、一度歯が痛くなるともう、歯医者へ行くしか選択肢が無くなってしまう。
他にどうしろと言うのか。この痛みを取り除く方法が他にあるのなら教えて欲しい。
何だか人生の選択肢を随分と沢山奪われた気分。
毎度の事ながら、歯医者へ行くのは非常に憂鬱だ。
何と言うか、弱者が強者に頼るしかない、この圧倒的な敗北感。
もう、全てが向こうの言いなり。こちらに出来る事と言えば、せいぜいこれから行く歯医者の先生が、いい人でありますようにと祈る位だ。
「コスモ歯科医院にしておきな」
と、嫁が言った。
「何で?」と私は聞いた。
「速いから。他の所とは全然違うから」
「速いって言うけどさ」
そう言って私は口籠った。
コスモ歯科医院、伝説の歯医者
その歯医者の評判は私も知っていた。
一度だけその歯医者へ行った事があるが、その小さな歯科医の待合室はいつも沢山の患者で混雑していた。外にまで溢れ返る位に。
その混雑ぶりはさながら野戦病院を彷彿とさせる。
そしてこんなに混んでいる歯医者、最近ではとんと見かけなくなった。
何でも、大抵の歯の治療は1~2回で終わらせ、その後の通院の必要は殆ど無いという。
一体どれだけ腕のいい歯医者なのだろうか。
それとも、他の歯医者とは根本的にシステムが異なるのだろうか。
このコスモ歯科医院は地元以外の人でも知っている人は知っているらしく、そしてみんな口を揃えて、「この歯医者は速い」と言う。
だが、色々考えて私は今回、このコスモ歯科医院を選択しなかった。
理由は場所。
そのコスモ歯科医院は私が住んでいる街から電車で約30分くらいかかる。
幾ら何回も通院しなくてもいいと言ったって、そこまで行く移動時間と電車賃諸々を考えたら、メリットとデメリットが相殺されるというものじゃないか。
「速いって言うけどさ、そんなに他の歯医者とすごい差があるわけじゃないでしょ」
私は言った。
せいぜい、コスモ歯科医院なら1~2回で終わるのが、他の歯医者なら4~5回程度かかるという程度のことでしょ。それくらいの差なら別に目をつむるよ。
そして幸いにも、私の住む家から歩いて5分の所に小奇麗な歯医者が1件あった。
ホームページでチェックしてみたが、地元出身の先生が経営していて、評判もそんなに悪くなさそうだ。
なかなかいいんじゃないの?
嫁には悪いけど、この歯医者へ行く事にした。
だが私のその決断は全くもって間違いだった。
素直にコスモ歯科医院に行っておけばよかったと、後でそう後悔することになる。
何だかなぁ・・・
それはもう何回目の通院なのかも忘れてしまった。
ただの虫歯の治療だった筈だ。
それが5回、6回と通っても一向に終わらない。
「今日は歯石をとるだけにします」
ある日その先生が私に言う。
歯石の除去がどうでもいい事とは言わないが、こっちは虫歯の治療に来ている。しかもこのために予定を潰して。
その虫歯の治療をしないで歯石を取るだけで終わらすのなら、せめてそれ相応の理由を言うべきなんじゃないのか?と私は思った。
どうもこの先生は歯医者に来る患者の気持ちが全く分かっていないらしい。
歯医者に来る患者の殆どは、「あと何回で終わるのか」が一番の関心事項。
それ以外の質問なんて思い浮かびやしないし、仮に質問があったとしても大抵の場合「そうですか」としか答えられないわけだし。
「先生、私はあと何回位通えばいいんですかね?」
しびれを切らしてある日、私は先生に聞いた。
すると先生は「うーん」と言って笑うだけで、答えない。
答えられないのはどういう事か。
分からないのか、言いたくないのか、どっちなのか。
一体私は何という歯医者を選んでしまったのか、と後悔する事しきりだった。
結局治療が完了したのは通院を始めて10回を過ぎた頃だった。
トータルでかかった費用は2万5千円を超えた。勿論、保険適用して、である。
何せ1回の治療で2千円以上必ず取るんだから。
そもそも虫歯の治療ってこんなに1回の治療費高かったっけ?
歯医者なんてたまにしか行かないからもう、何がデフォルトなのかも分からないし、判断する材料がそもそも乏しい。
数ヵ月後、ようやく全ての治療が終わった時、私は心底ホッとした。
そして、「もうここへ来なくていいんだ」と思うと、心の奥底から安堵の気持ちがドッと溢れ出た。
そしてふいに、コスモ歯科医院の事が脳裏を過ぎった。
勿論、コスモ歯科医院に行っていれば本当に1~2回で終わったのかは、分からない。
虫歯の状態なんて人それぞれなんだし、「あなたの場合、普通の人より虫歯の進行が進んでて大変だった」と言われたらこっちとしたらそれを信じるしかない。
結局の所、歯医者という場所ではその担当の先生の腕や言う言葉をただただ頷いて信じるしかないんだなと、改めてそう思わざるを得なかった。
歯医者の、なぜ
所で、Googleで”歯医者” ”なぜ” というキーワードを入れると、
”なぜ何回も” ”なぜ一週間” ”なぜ一度に” ”なぜ何度も” という関連キーワードが表示される。
多くの人が同じような、不信感にも似た思いを歯医者に抱いている証拠だ。
そして、それに対する歯医者側の回答も検索結果には数多く投稿されている。
なるほど、歯医者側の言い分もそれはそれで分かる。
日本の保険制度の問題、経営上の問題、なるべく多くの患者を診たいという気持ちetc…
歯医者側も色々とあって大変なんだろう。だけど、一つだけ言いたい。
「色々あって仕方ないんだよ」なんて気持ちで営業していたら、結局はどこの歯医者も同じような仕組みのものになってしまうんじゃないかな。
そして、その答えが多くの人が歯医者に感じている不満を解消させるだけの説得力があると本当に言えるのかな。
仮にもし私が誰かに「どこかお薦めの歯医者ない?」と聞かれた時、「ああ、あそこがいいよ」と真っ先にその歯医者の名前が浮かび、無条件でお薦めできる歯医者、それがいい歯医者ってものじゃないのかな。
少なくとも私が今回行った歯医者は誰にも薦めることはないだろうし、また私自身また歯が痛くなってもそこに行くことは多分ないだろう。
コスモ歯科医院があれだけいつも人でごった返していて、しかも多くの人がその歯医者を他の人に薦めるのには、きっと理由があった筈。
それはこの歯医者が他の、そこら辺にある、その他大勢の歯医者と同じ考えで営業していなかった。「何度も何度も通いたくない」という、患者側のニーズに最大限応えた治療をしていた。そういう事なんじゃないの? 私はそう思う。
どんな店でもそうだけど、「あ、この店不当に儲けようとしてんな」と、少しでもそういう不信感を感じてしまった店には、客は二度と行かないし、誰にも口コミもしない。
客がその店について思わず誰かに話したくなる時というのは、他の店とは全く違うサービスや心配り、そういうものを感じた時だ。
それが新たな客を呼び、そしてそれが更なる口コミを呼び、結果的に店は繁盛する。
コスモ歯科医院のようにね。
医療だって結局はサービス業でしょう
お客さんからお金を貰って経営していく以上、歯医者も床屋やサロンと同じサービス業でしょう。
芸人でもあり、実業家でもあった島田紳助氏は「ご飯を大盛りにするオバチャンの居る店は必ず繁盛する」という本の中でこう言っている。
オバチャンは食べ盛りの若い人に、もっともっと安い金額で一杯食べて欲しいから赤字覚悟でご飯を大盛りにする。
そこに商売の匂いは一切ない。
しかし、そのオバチャンの心意気は、多くの人の共感と口コミを呼ぶ。
結果的に、そのオバチャンのお店はいつも大繁盛している。
そして店は儲かる。
これが商売というものだ、と島田紳助氏は言う。
そういうものだよなと思う。
「儲ける気など更々ない。客が喜んでくれたらそれでいい」
そんな店側の心意気に、人は心動かされるのだ。
なぜ?なぜって、人ってそういうものだから、なんじゃないのかな。
そしてそれこそが、客から金を貰って成り立っている「サービス業」のあるべき姿ってもんじゃないの? 私はそう思う。
追伸
コスモ歯科医院は横浜市にあった、”速さと正確さ”で有名な、知る人ぞ知る伝説の歯医者である。
ただ残念な事に、現在はもう店を畳んでしまったらしい。