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車の優先席を巡ってトラブルになったというニュースを最近よく目にする。

その多くは、お年寄りや妊婦のような体の不自由な人が立っているのに、優先席に座ったまま席を譲らない人に腹が立ち、つい注意した所口論となってしまったというもの。

勿論、最近はマナーの悪い人が多いし、それを見て苛々したり注意したくなる気持ちも分かる。

でも、それよりも自分なんかはそういうニュースを見て、先ずいつもこう思ってしまう。

 

そういう人に注意する時、みんなどんな感じで注意してるんだろう?と。

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ニュース記事だけ読むと、大抵、”マナーの悪い客に注意した所、相手は激怒し…”みたいな感じで書かれてるだけだけど、実際どういう感じで注意してるかは、その場に居た人じゃないと分からない。

なぜこんな事を書いてるかというと、人に意見するのは本当に大変な事だと思うから。

それが話した事もない、見ず知らずの他人相手なら尚更だ。

 

人に意見するのがどれだけ大変な事なのか、よい文献があったので紹介したい。

江戸時代の武士、山本常朝(やまもとじょうちょう)が「葉隠」の中で口述した言葉だ。

異見と云うは、先其人の請るか、請ぬかの気を能く見わけ、入魂になり、此方の詞を兼々信仰有様に仕成してより、好きの道などより引入れ候様、種々に工夫し、時節を考、或いは文通、或いは暇乞いなどの折にも、我身の上の悪事を申出し、不言しても思い当たる様に、先能事を褒立、気を引立工夫を砕き、渇時水呑様に受合せ、疵直るが意見也。殊外仕にくきもの也。
年来の曲なれば、大体にては直らず。我身にも覚え有。諸傍輩下々入魂をし、曲を直して、一味同心に御用に立所なれば、御奉公大慈悲也。然るに恥を与へて何しに直り可申哉。

(意見というものはまず第一に相手が受けいれるか否かの様子をよく見きわめ、
ふだんから親しく付き合ってこちらの言葉を相手が信用するように仕向けておいて、それから趣味の話などから相手を引きいれるようにいろいろと工夫し、
時と場合を考え、あるいは手紙を書く際あるいは別れの挨拶のときなどの機会をとらえて、まず自分の悪癖や失敗談などからはじめ、
直接にそれといわないでも相手が思い当たるようにしたり、
またはまず相手の長所を褒め上げて相手の気分を盛り上げる工夫をするなどして、喉の渇いたときに水を呑むように受け入れさせて欠点が直るようにするのが意見である。
長年の癖だから普通のやり方では直らない。
私自身も身に覚えのあることである。
同僚や配下の者たちとふだんから親しくしておいて、かれらの癖を直して心を一つにし力を合わせて主君のお役にたとうというのであるから、これは立派な御奉公であり大慈悲である。
しかるに相手に恥をかかせるようでは、どうしてその癖を直すことができようか)

葉隠(はがくれ) 武士と「奉公」~講談社学術文庫より

何とも心優しい言葉で、ちょっと感動してしまう。

そして山本常朝が生きた時代も今の時代も、何も変わらないんだなと。そう思ってしまう。

例え相手の悪い行いを注意する時でも、ここまで相手の事を思いやる。これが武士道。

常朝曰く、武士は面子を何よりも大事にする。

面子を潰されたと感じた武士は、自ら腹を切る。

だから、武士は何より相手に恥をかかせないよう、細心の注意を払って生きるのだと。

 

でも、それは現代の世の中でも一緒なんじゃないのかなと。

そして自分はそんな風に相手の事を思いやって生きてるのかなと。

自分の意見が正しいからと、それだけで相手の気持ちも考えずただやり込めようとしていないかなと。

ただ正しい事を「正しい」と主張するだけなら子供でもできる。

でもそれだけでは人間関係は回らない。

相手の事を思いやれるのは、大人だから。

相手に恥をかかせずに、不快にさせずに、直して欲しい点を指摘できるのも、大人だから。

我々は大人として行動できているだろうか。

ただ自分が「正しいから」というそれだけの理由で、無用な諍いを起こしてやしないだろうか。

葉隠を読むと今でもついそんな事を考えてしまう。

 

 

 

追伸
「葉隠」は若い頃父に貰った本で、今でも時折本棚から出して読む本です。
当初は読んでもちんぷんかんぷん(死語)で、もしかしたら父がくれなければ一生読まなかった本かもしれません。
そういう意味でも、自分にとってとても感慨深い本ですね。