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と言えばセミである。

あの鬱陶しくて暑苦しい鳴き声を聞くと、何故かノスタルジックな気持ちになる。

かく言う私も子供の頃は、夏になるとそんなセミを夢中になって追いかけ回した。

だが今ではあんなグロテスクな生き物を追いかけ回した理由すら思い出せない。

大人になるとは何て寂しく、虚しいことなんだろう。

 

街を歩くと虫カゴの中に大量のセミを捕獲した子どもたちにたまに出会う。

ジジジジジジジと虫カゴの中でとんでもない大音量で鳴き続ける声がまるで、

「返せ!俺の土の中での10年を返せ!」とセミ達が絶叫しているみたいに聞こえて、何ともいたたまれない気持ちになる。

しかし自分も子供の頃同じ仕打ちをセミにしたことを考えると、子供がやった事とは言え、我ながらとんでもないことをしてしまったなと自戒の念に駆られる。

だが大人になった私が今更、自分が子供の頃してきたことを棚に上げて、「おい少年、セミは一週間しか生きられないのだから、捕まえるなんて野暮なことはせず、ただ静かに見守ってあげるのが人の道というものではないか」などと上から言うのもアレなので、とりあえず放っておくことにする。

 

 

所で冒頭の写真もそうだが、私の住む横浜や東京でやかましくジジジジ鳴いているのは大抵、アブラゼミである。

そして、都会の子供に捕まって、虫かごに大量に入っているのも大抵アブラゼミである。

それもその筈。このアブラゼミ、人が近付いてもあまり逃げようとしないのが特徴で、撮影も実に簡単にOKしてくれる(本人はOKしてるつもりは無いだろうけど)

アブラゼミが都会に多い理由は恐らくその辺りにあるのだろう。

ハトもそうだが、人にいちいち敏感に反応して逃げ回っているようでは、都会では生きられない。これは人間にも言えることかも知れないが。

 

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何があってもいちいち反応しない。俺はやるべき時にやるべき事をやるだけだ。例えそのせいで大した理由もなくガキ共に捕まり、虫カゴの中で儚い一生を終えることになろうとも。

 

こんな考え方のできる者だけが都会で生きる資格があると言えよう。

それはセミであっても、人間であっても。

そう考えるとあのクソ暑い中のやかましいアブラゼミの鳴き声にも、急に風情を感じてくるから不思議なものだ。

 

セミと言えばさだまさしさんの「広島の空」という歌の中で印象深い一節がある。

セミは鳴き続けていたと彼は言った

あんな日にセミはまだ鳴き続けていたと

短い命惜しむように惜しむように鳴き続けていたと

 

そう、セミはどんな時にでも鳴き続ける。

例え近くに爆弾を落とされようとも、工事現場のやかましいドリル音が近くで鳴り響こうとも、子供達に網ですくわれようとも、それでもただひたすら鳴き続ける。

力の限り、命の限り。

鳴き続ける事、それがセミにできる唯一の、そして精一杯の事だから。

そんな姿を見ているとふと、「自分は今、力いっぱい生きてるのかな」なんて考えてしまう。

悔いのないように、明日死んでも後悔しないという位、力いっぱい今を生きてるのかなと。

セミみたいに、自分にしか出来ない事を見つけて、そして命の限りひたすら頑張り続ける、そんな生き方をしたいな。いや、しないといけないよな。

そんな事をふと思った、とあるクソ暑い夏の日の一頁。