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供の頃、エホバの証人だった。

小学校低学年の頃から凡そ10年間、私は毎週、母親に連れられて王国会館と呼ばれる教会へ通っていた。

 

勿論、私が子供心に自分自身で教会へ行く事を決めたわけではないし、

私自身、エホバの証人として生きたいと願ったわけでもない。

母親が熱心なエホバの証人の信者で、当時子供だった私には”断る”という選択肢が無かったし、そんな事思い付きもしなかったという、ただそれだけ。

 

そこに自分の意思は無かった。

 

お陰で私の子供時代は端から見たら随分と不自由で、つまらないものだったのかも知れない。

でも、そんな事は別に当時どこの家庭でもそんなに珍しい事ではなかったし、寧ろ親によって子供の生き方や考え方、生活が変わるのは当然の事のように思う。

 

大体、自分の意思とは関係無く親に勝手に決められたと言うのなら、小学校だって私が行きたいと願ったから行ったわけではない。

私が親に頼み込んで学校へ行かせて貰ったわけでもない。

当時子供だった私には、”小学校に行かない”という選択肢は無かったし、それにそんな事思い付きもしなかったという、ただそれだけだった。

 

映画「パーフェクト ワールド」の中で、エホバの証人の親の子供に生まれたために、色々なやりたい事をやれずに不自由な思いをして生きてきた少年、ブッチが主人公のフィリップに誘拐され、感化され、そしてそのおかげで変わっていく姿が描かれていたが、私はそれはそれでどうかと思う。

 

結局はどっちに転んだ所で、どんな綺麗事を言った所で、子供はいつの時代も親や大人の生き方や考え方、価値観に振り回されて生きる事に違いはないんじゃないのかと。

 

少なくとも映画の中のブッチの母親だって、子供に何でも好きな事をやらせる事よりも大切な事があると子供に教えたかったんじゃないの?と。

大体、子供に小さい頃から、

「何でもやりたい事を自由にやりなさい」

なんて教育をしたら、それこそロクな大人になんてならないと思うんだけどね。

勿論、私は子供を育てた事がないから、恐らくはという想像で語っているだけだけど。

 

かく言う私も子供の頃は教会へ行くために部活も入れず、クラスメートからはキリスト野郎と陰口叩かれたりと、不自由だらけの生活だったけど、別に親を恨んじゃいない。

それに、

母親が子供の頃の私に不自由を与え、そして無理やりにでも教会へずっと連れて行ったのは、それが母親にとって将来救われる唯一の道だと信じていたからだろう。恐らくは。

いつか聖書に書かれてある通り、世の中が滅んでしまった時、家族の中で自分だけ助かる道を選びたくなかったからだろう。恐らくは。

そして、幸せになるのら、自分の愛する子供と一緒に幸せになりたいと願ったからだろう。

つまり、母親の全ての行動は息子の私を愛していたからの事だったのだろう。恐らくは。

あれから随分と歳を取った。私がまたあの頃のようにまたエホバの証人に戻って、母親と一緒に王国会館へ行く事はきっともう無いのかも知れない。

それでも、私はそれを思うだけで、当時の子供時代の私は他の普通の家庭と比べても十分幸せな子供だったんだと、そんな風に思ってしまうのだ。

 

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宗教=?

宗教と聞くと、どうも胡散臭さがある。

宗教=騙される、洗脳される というイメージ。

最近TVでよく報道されている女性タレント所属の某宗教なんかも、どうも胡散臭い。

勿論、TVの報道などいつの時代も恣意的で好戦的で、どこか冷笑的で、とても全てをまともに受け止めるわけには到底いかないにしてもだ。

ただ、今回の若い女優と宗教団体の報道を見て、多くの人が感じる宗教へのイメージは、きっといいものではないだろうと思う。

 

宗教は胡散臭い。

宗教はインチキ。

宗教に入る人間なんて低レベル。

 

よくネットで見かけるその意見もよく分かる。

ごくごく普通の人がよくよく冷静になって考えて見れば、この情報が散乱し、選択肢が有り余る時代に、わざわざ敢えて宗教に入る意味なんてどこにも無いように思う。

 

だが、以前、こんな事があった。

仕事で、とある都内では有名な宗教団体へ、修理が終わった機材を上司と共に届けに行った時の話だ。

その宗教団体の建物へ行くと、丁度ミサか何かの日だったのか、実に多くの信者の方々とすれ違った。

彼(彼女)らの物腰はとても柔らかく、その表情は柔和だった。

機材を運ぶ我々に対して、彼らは例外なく微笑みかけ、

「こんにちは」

と挨拶してきた。

その物腰は東京の丸の内周辺を歩くサラリーマンやOLとは明らかに違うものだった。

ギスギスしてない。イライラしてない。疲れた顔をしていない。舌打ちしない。無表情で歩いていない。しかめっ面をしていない。心痛そうな面持ちをしていない。

その、あまりにも普段私の身の回りに居る人たちと違う彼らの姿に、「ああ、やっぱり今の世の中、何かが間違ってる」と思わざるを得なかった。

機材をエレベーターに載せ、教会の責任者の元へと向かった。

奥から長老らしき年配の男性が現れ、機材を運んできた我々に向かって言った。

「わざわざありがとうございます。大変だったでしょう?」

 

ああ、なんて優しいんだ!

 

「本当にご苦労様でした。どうかお気をつけてお帰りください」

何から何まで気配りの行き届いたその長老の温かい対応に、私の心は更に動かされた。

 

人って不思議だね。

ただ、優しい言葉を掛けられるだけで、こんなに嬉しい。

ただ、にこやかに微笑まれるだけで、こんなに暖かい気持ちになれる。

 

やっぱり宗教っていうのは人間に必要なものなのかも知れない。

 

そう思ったりした。

いっそ、自分もまた宗教の世界に戻ろうかな。

思わずそんな事を考えてしまったのだ。

 

今の世の中はどこへ行ってもいがみ合い、罵り合い、舌打ち、罵倒の言葉に悪態三昧。

 

宗教にのめり込む信者達を見て、彼らはさも常識人よろしく然り顔で「あいつらは異常だ」なんて言うが、そういう自分たちは一体何なんだと。

 

電車で少し肩が当たれば睨みつけ、他人の靴を踏んでも謝りもしない。

少しミスをすれば上から目線のクレーム、罵倒の言葉。

家に帰ればネットで他人にバカだの死ねだの平気な顔で投稿する。

 

そんな生き方をしている自分たちは、宗教にのめり込む彼らに比べて一体どれくらいまともだと言うのか。

 

そんな似非常識人にうんざりしてしまった人達が、宗教に自分の生きる道を見出しているのではないのか。

少なくともその教会へ通う信者達は、世間一般の自称常識人達のようにせかせか、不機嫌そうに、イライラした顔で歩いてない。

それどころか、誰もがにこやかな表情ですれ違う人に優しく「こんにちは」と挨拶してくれる。

仕事で機材を運んできただけの私達に対して、優しく労ってくれる。

一体、この世の中のどこにそんな人が居ると言うのか。

そして、これが人の本来あるべき正しい姿というものではないのか。そうでしょう?

 

私はあの時本気で宗教って素晴らしいと思い始めていた。

上司と一緒に教会に機材を引き渡し終わり、車に戻り、その後の上司の一言を聞くまでは。

 

「あの長老、今日は随分機嫌良かったね。機材が壊れた時、電話では散々口汚い言葉で怒鳴りまくっていたんだけど」

 

「・・・・・」

 

ああ、そうだった。

思い出した。確か、私があれだけ子供の頃熱心に通っていた王国会館に通わなくなったのも、そんな人間の、大人の裏表さに疑念を持つようになってしまったからだった。

そして、一度疑念を持つともうダメだった。

全てが、嘘臭い。

あの信者達の笑顔すら。

 

でも何故だろう。

それが例え、心からのものではなかったとしても、人に微笑まれるとこんなに嬉しい。

世の中の荒波に揉まれて、人の罵声に耐えて、心無い一言に気が滅入りながら生きてきて、もう慣れっこだよなんてうそぶいてみて、それでも、

 

それでもやっぱり、人から優しくされるととても嬉しい。

 

 

現在、世界の人口は約70億人。

そのうち、宗教に関わっている人は50億近く居るという。

 

この数字を見て、「自分は宗教とは関係無いから」とはとても言えない。

 

宗教なんかやるのはバカだと言うのなら、人類の4分の3はバカなのか。

無神論者だけがいつも賢く、正しいのか。

もう少し、今よりも少しだけ真剣に、宗教について考えて見たいと思った。

せめて今のこの年度末のクソ忙しい時期が終わったら、今度こそ真剣に。

今よりもう少しだけ真剣に。

 

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