「長生きするのはもはや犯罪だな」
久しぶりに実家に電話した時、もうすぐ80になる父は皮肉っぽく私にそう言った。
冗談ではなく、多分本心からだろう。
父は昔からそういう人間だった。
口が悪く、二言目には毒を吐く。それが例え他人の事だろうと、自分の事だろうと。
だから昔から父とはあまり分かり合えなかった。
いや、多分今でさえ分かり合ってなどいないのかも知れない。
もうすぐ父の日だ。
今年は2017年。6月18日の日曜日が父の日。
正直、今まで人生で父の日に贈り物らしい贈り物をした事がない。
何を贈っても皮肉を言われるだけの気がしたし、それにあまり物に執着しない人だったから。
だから、父の日 プレゼント 70代 のようなワードで検索してみても無駄な事。
そこにうちの父に相応しいプレゼントの情報などきっと無い。
もっとも、別に父だけじゃなく、誰に贈るプレゼントでもネットの検索で得た情報ごときが参考になった試しなど無いが。
とまあ、父に似て二言目には毒を吐く自分の性格が自分でも最近ややウザい。
しかしネット検索で出てくる情報の殆どが使えない理由はちゃんとある。
それは、記事の内容がその他大勢版になり過ぎているという事。
ネットの記事は大勢の人に読んで貰うべきものだから、ある程度は仕方の無い事なのかも知れないが、人は所詮、千差万別なのだ。
だが一つだけ言えるのは、
かけがえのない人に贈るプレゼントが”その他大勢版”であっていいわけがない。
大体、もしうちの父が普通のその他大勢版の父親なら、「長生きするのは犯罪だ」なんて自分の息子に言ったりしない。
そんな父に万歩計やメガネケースを贈った所でどうなのかという話。
勿論、喜ばないとは言わないが、私が思うにうちの父は多分、こんな事を考える筈。
そこらへんの何も考えてない年寄り扱いしやがって
どうも我々若い世代(と言う程若くもないが)は、高齢者のプライドを無視してプレゼントを選びがちだ。
当然だが、人間、歳を取らないと分からない考え方、生き方がある。
我々よりも何十年も長く生きてる人生の先輩に対して、浅い人生の中安易なプレゼントをチョイスするのは色々な意味で危険が伴う。
ましてや、男は歳を取るごとに面倒くさくなる生き物。その面倒くささたるや、女性の比ではない。
そこで今日は父の日に贈るプレゼントについて、少し真剣に、何なら知恵熱が少々出る位に考えてみようと思う。
父の日に贈ってはいけないもの
先ず、私が考える、父の日(に限らず)、父親に安易に贈ってはいけないと私が思う物リストから。
1.本
2.靴
3.服
何故かみんな漢字一文字になってしまったが、勿論偶然である。
ではまず1の本から。
私の経験上、誕生日や記念日に本など贈ってもまず読まれない。
これはその人が日頃から本を読むか読まないかとは全く別の問題である。
そもそもこの、本を贈るという行為は、人生の先輩が後輩にする行為だと思う。
年下の後輩に、
「この本は本当に人生が変わる位すごい本だから、読んでみて」
そう言われても大きなお世話である。
器が小さいと言われようが、それが人間。その本が本当に役立つかそうでないかなどとは全く別の話だ。
そして本というものは趣味の世界。好みも千差万別なのである。あなたがいいと思った本が相手もいいと思う保証は全く無い。それが例え身内であったとしても。
更に言うなら、本とは出会いが大切だ。本との出会いは運命的なものであるべきであって、決して誰かの推薦やお見合いであってはならない(単なる個人的意見だが)
何より、自分の好みを相手に無理に押し付けてるような気がしてしまうのが一番の問題だ。
私自身も多少なり本を読む人間だから、余計にそう思う。
よっぽ相手が村上春樹が好きで、しかも最新刊の「騎士団長殺し」をまだ読んでいないといった正確な情報が事前に得られているとかなら別だが、一般的に考えて父の日に限らず記念日に本の贈り物はリスクが高すぎると考えるべきだろう。
どうしても本を贈りたいのなら、最悪読まれない事を覚悟しなければならない。
次に靴。
常識的に考えて靴は無いでしょう。勿論サンダルも同様だ。
かく言う私も若い頃、父に結構高い革靴を贈った事があるが、正直履いてる所など見た事がない。
こんな事もあった。
昔、十代の頃、父が引き出物か何かで貰ってずっと履いていなかった漆塗りの下駄を「履いてないなら頂戴」とねだった事があったが、結局父はくれなかった。
理由は未だに分からない。
自分でいつか履こうと思っていたのか、それとも引き出物だったからなのか、私に下駄を履いて欲しくなかったのか。
思うに、歩くという行為は人生そのものである。
ならば靴は人生に必要不可欠のもの。だから、好みも愛着もひとしおなものだろう。例えそれが安い靴だろうが高い靴だろうが。
更に言えば、サイズという根本的な問題もある。
プレゼントに靴。少しばかり無謀な行為なのかも知れない。
次は服。これはパジャマやはんてんでも同じだ。
とにかくプレゼントに服を贈るのだけは止めて欲しいと個人的に思う。特に高齢者へのプレゼントなら尚更。
何故なら、「高齢者だからこんな柄でいいだろう」或いは「あったかければいいだろう」といった、送り手の安易な考えが見え隠れするから。
実際、うちの父も退職してからは大した服は着ていない。ネルシャツとかそんなものだ。
だが、だからと言って似たような柄と材質のシャツを贈るというのはどうかと思う。
その人がどういう意図と理由でその服を着ているのかを知らずに安易なチョイス、これはダメでしょう。
私も昔、ポロシャツで今着ているのと似たような色のやつを人から貰ったが、結局その貰った方は殆ど着なかったのを覚えている。
似ているだけでやっぱり色が微妙に好みじゃなかったのだ。
とにかく身に付ける物を贈る際は十分な注意が必要。
もしどうしても服や靴を贈りたいなら、父親の入念な情報収集を怠らない事だ。
安易なプレゼントは贈った側も送られた側も、両方が失望する。
以上、ここまでを要約すると、本と身に付ける物はダメという事だ。
と、ここまで2000文字以上費やしてこんな程度の当たり前の事しか書けていない自分が腹立たしい。
父の日に贈って間違いの無いもの
では逆に父の日に贈って間違いの無い物を以下に挙げてみる。
1.酒
2.食べ物
3.マッサージ器具
先ず、酒。
もし医者に酒を止められていないとかでない限り、一番無難な父親に対する贈り物であり、かつ喜ばれる物だろう。
かく言う私も年末に貰うお歳暮ではビールが一番嬉しい。
だがそれはあくまで「ビールを自分で買う手間が省けた」という類の嬉しさであって、貰って心がホッと温まるといった類の嬉しさではない。
嬉しいは嬉しいだろうが、年に一度の父の日の贈り物がそんなお歳暮的扱いでいいのかという疑念は残る。
これは2の食べ物についても全く同様だ。
ケーキやお菓子、生ハムなどを貰って嬉しいのは分かるが、それが父の日のプレゼントでいいのか?
別に父の日じゃなくても普通に贈ればいいんじゃないのかと。
これは酒にも言える事だが、こうなるともう、父の日なんだかお歳暮なんだかただの引き出物なんだかわかりゃしない。
だからよく父の日は社交辞令じみてると言われてしまう。
最後に3のマッサージ器具。
これはもう、持っていないのであればある意味高齢者への贈り物に最も相応しい鉄板のようなもの。
ヒーター付きフットマッサージャーなら場所も取らず、冬場も重宝する。というかこれは自分も一台持っていて今でも使っている。
但し、もう既に何らかのマッサージ器具を持っているのなら贈る意味は全く無いが。
結論
「父の日に何か贈り物をしよう」と考え付いてから、その後父の事を色々考えて思い出してみた。
私がまだ小さかった頃の父の趣味は麻雀だった。
家を建て替えてからは倹約のためなのか、その麻雀をスッパリとやめ、その代わり家でファミコンの麻雀ゲームをひたすらやるようになった。
昭和初期生まれのため、多分に漏れず将棋が好きだった。
後は相撲、野球。観戦などには行かずTVで観る専門だったがどっちもやたら詳しかった。
ただ、父が入院した時、病室で退屈だろうと思い子供ながらに色々考え、結局高校野球の雑誌を買って持って行ったら「要らない」と言われた。
政治の話も好きだった。と言うか何の話をしていても大体いつの間にか政治の話になってるという位。
宮本武蔵の「五輪書」と山本常朝の「葉隠」がお気に入りの書らしく、よく私にも薦めてきた。生憎「五輪書」は紛失してしまったが、「葉隠」だけは今も私の書棚にあり、今でも時々読む。
後は・・・まだ何かあったかな。
父の日のプレゼントの結論はまだ出さない事にした。
こうして、父の好きだった物や思い出を、うんうん唸りながら、首をひねりながら思い出している時間、それがきっと大事なんだろうと思うから。
きっと父もそれが一番嬉しいんじゃないのかな、なんて思いながら。
毎日が忙しくて、色んな事に頭を悩め、思い出を振り返る余裕すらなく、ただ景色だけが高速で流れていく人生。
仕方の無い事だし、生きていくためにはそうしていくしかない。それでも、
安易にすぐ決めちゃいけない。悩まずに決めちゃいけない。
目を閉じて、父と過ごした時間を思い出して、そして何を贈ろうかと悩む。
結果何も贈らなかったとしても、それが父の日の一番の過ごし方なんじゃないか、そんな風に思ったりする。