昔、スター・ウォーズ・エピソード1~3の新三部作が公開された頃、私の知人の映画ファンがこんな事を言っていたのを覚えている。
「新三部作なんてあんなくだらないもの、一体誰が観るの?
だって、アナキン・スカイウォーカーがダースベイダーになるまでを描いたストーリーなんでしょ?
みんなもう結末知ってるじゃん。結末の分かってる映画を観る事に一体何の意味があるの?
あんな映画作る方も観る方も、頭おかしいよね」
まあ、彼の言いたい事は分かる。よく分かる。
だけど私は彼のその意見に少し釈然としない部分があった。けれどその場では反論はしなかった。
何故って、私は彼程映画を沢山見るわけじゃないし、人に何かを語る程の映画の知識が無かったから。
ただ、一つだけあの時言いたかった事、それは、
映画って一度見たら終わりなの? 映画の価値は最初の一度っきりなの?
だって、「ストーリーや結末が分かってるからその映画は観る価値が無い」と言うのなら、同じ映画を2度3度所か、10回20回も見てる奴らは一体何なの?と思ってしまう。
例えば本。私は本なら人並に読むから本に例えると分かりやすい。
凡そ読書家には二種類のタイプがいる。
一つは、まるで流し読みするようにして本を次から次へと読んでいき、年間1000冊とか読んじゃうタイプの読書家。
もう一つは、同じ本をやたら何十回も読み、空でその本に書いてあるセリフや文章を言えるくらい、繰り返し読み続けるタイプの読書家。
これはもう、どっちがどうとかではなく、本当に感性の問題だろう。
この事に対して丁度いい参考文献があるので、一つ紹介したい。
渡部昇一教授が書いた知的エッセイ「知的生活の方法」の中の一文である。
中学三年のころのことである。
友だちがうちに本を借りにやってきた。
当時はまだ戦争中で新しい本を買うことなどはできなかったから、みんな借りたり貸したりして読み合っていたのである。
うちには古い『キング』や『講談倶楽部』や『少年倶楽部』がたくさんあって、それは宝の山みたいなものだった。
その友人は、私がさし出す『少年倶楽部』をめくっては首をかしげているのである。
何を考えているのかと思ったら、
「これはもう前に読んだことがあったような気もするし、まだ読んだことがないような気もするし…」と言っているのだ。
これを聞いて私は本当にびっくりした。
どんなにびっくりしたかは、それから三十年以上も経ったいまでも、そのときの光景をよく覚えていることからもわかる。
なぜ私がそんなに驚いたかと言うと、一度読んだかどうかよくわからない『少年倶楽部』を、ひょっとしたら読んだことがあるかも知れないという恐れから、すぐ借りないということが、どうしても不可解だったからである。
私は、半分物置きみたいになっている二階に、山のように積んである雑誌を、一冊残らず何度も何度も読んでいた。
うちにある雑誌はすべて講談社のものばかりと言ってもよく、例外としては『主婦の友』が少し混っていたくらいであるから、むずかしいものはなかった。
健全娯楽雑誌ばかりである。
しかしそうした雑誌の小説でも、漫画でも、物語でも、読んでしばらく経つと記憶がぼけてくる。
小説などでも筋の細かいところを忘れたり、また筋は覚えていても詳しい叙述の仕方をまた読みたくなったりした。
だから私にとっては古い『キング』や『少年倶楽部』は全部、五回も十回も読んでいるのに退屈しなかったのである。
ところがいま、私のところにそういう雑誌を借りに来た友人は、一度読んだことがあるかどうかの記憶も確かでないのに、借りるのを躊躇しているのだ。
一度読んだ本を読み返すのはそんなに損することなのだろうか。
そのときにはじめて、自分と違う読み方のあることを眼のあたりに見た気がしたのである。
-渡部昇一著「知的生活の方法」講談社現代新書より
思わず「あっ!」と言いたくなるような見事な表現と感性だ。
言ってる事は本当によく分かる。まるで心の中でずっとモヤモヤしていた事をズバリと誰かが言ってくれた時みたいに。
実は私もたまに嫁と一緒に映画を観ていると、嫁が途中で、
「これ観たことある気がする…」
と言い出し、
「やっぱり観たことあるよこれ!」
「ほら、やっぱり!」
とかずっと言ってて、もう思わず首根っこ掴んで外につまみ出してやりたい衝動に駆られる時がある。
もう、観たことあるかどうかとかどうでもいいから、せっかく途中まで観たんだから最後まで黙って観ようよと私は思うんだが、どうなんだろうね。
やっぱり一度観た事がある映画や本は、もう知ってるからいい、なんて人も比率的には結構多いのだろうか。
逆にそういう人の方が記憶力とか頭が良いのかも知れない。
私は頭も記憶力もあまり良くないので、何回も読んだり観たりして自分の記憶の枠線を濃くしていきたい、と思う派だ。
あなたはどっちでしょう。
一度読んだ本の収納について
本好きの誰もが頭を悩ます本の収納。
どう生活しようと本は必ず押入れに溜まっていくもの。
それも、1回しか読まないような本が大量に。
私も数年に1回、収納でにっちもさっちもいかなくなり、仕方なくブックオフへ大量に本を持ち込んで処分する。
その時にいつも思うのは、毎年アホみたいに本を買うくせに、いざ処分する事になって「残しておきたい」と思う本って少ないなあって事。
いい本っていうのは実は本当に少ない。
その事について、渡部氏も下のように言っている。
現代のように本の多い時代に生きながらも、「読んでよかったなあ」とほんとうに思える本にめぐり会うことはめったにない。
そういうことがあれば、まったく天の祝福である。
ところが本というのは読んでみないことにはそういう体験を味わえるかどうかわからないのだ。
それを予知するカンを養う一番よい方法は、何と言っても、「読んでよかったなあ」とほんとうに自分が思った本を自分の周囲に置くこと、
そして時々、それを取り出してパラパラと読みかえすことなのである。
その修練ができておれば、書店で立ち読みしただけで、ピーンと来るようになる。
-渡部昇一著「知的生活の方法」講談社現代新書より
「うーん、さすが読書家」と唸るくらいの文章の潔さ。
そして同時に、「本が本当に大好きなんだな」という思いも伝わって来る。
本に取捨選択については、あの「片付けの魔法使い」、こんまりこと近藤麻理恵さんもこう言っていた。
本も服と同様、選ぶ基準は「ときめき」です。
めくってはダメです。
さわったときに、ときめくかだけ感じてください。
読んでしまうと、ときめくかどうかでなく、必要かどうかと判断が鈍ってしまいます。
自分にとってときめく本だけが並んでいる本棚を想像してみてください。
もっともっと夢のようで幸せな気分になりませんか。
-近藤麻理恵「(マンガで読む)人生がときめく片付けの魔法」サンマーク出版より
成程ね。それは本当にその通りだと思う。
本はその時の勢いと感情でつい買ってしまうもの。
だから買ったはいいけど読まない本も大量にある。
それはもう、ときめかない本なんだよね。
きっとそうなった本はこれからも一生読まれない。
つくづく本というのは出会いなんだなあと。
最後に
映画好きで好きで、同じ映画を10回も映画館に観に行ったというバカ熱狂的映画ファンを一人、知っている。
彼の映画の話を聞いていても、ぶっちゃけそんなに面白くもないが、一つだけ言えるのは、
その映画を1回しか観てない人と、言う事が違う という事。
そう、1回しかその映画を観てない人は大体ストーリーとか登場人物の話をする。
だが、彼は音やカット割りの話なんかをよくする。
多分、同じ映画でも、見ている所が違うんだろう。
サッカーでもそう。
サッカー初心者はボールの動きを目で追い。サッカー玄人はボールではなく、ボールに反応する選手の動きを目で追うらしい。それも自然に。
それを聞いて私も玄人ぶって、ボールじゃなくてディフェンダーの動きを目で追うようにしたが、5分後にはまたいつものようにボールを目で追っていた。
いきなり初心者が玄人みたいな事やったってそりゃあダメだよね。
「今年は月10冊本を読む!」なんて目標もいいけど、
「今年は年1冊本を読む。ただし何十回も」なんて目標も有りかも知れない。
勿論、そのためには本当にいい本に出会わないといけないけどね。
いい本に出会えたらいいな。
それはきっと、いい人に出会う確率と同じ位、低いのかも知れないけれど。
因みに、「知的生活の方法」は初版が1976年なのに、未だAmazonベストセラー。凄いねそれって。
文章もとにかく分かりやすく、読みやすい。手元にずっと置いておきたい本の一つ。
こんまりさんのはマンガ版の方がより頭にスゥーっと入ってきて分かりやすい。
色々意見あるけど、私は素直に彼女は当たり前のようで凄い事言ってると思う。